昭和50年02月07日 朝の御理解
御理解 第20節
『此方が天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。可愛い者じゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。』
私今朝方からお夢を頂いた。あるご信者がみえて、そして私が「お腹が空いた」て言いよったら、「そんなら近くに支那料理の美味しい所がありますから、私が今から注文して来ます。出前もするですから」と言う訳なんです。私は喜んでんなら待っとこうと思ちから待っとったら、待てど暮らせど来ませんもん。それからもうとうとう、しかたが無いからもう頂こう。自分で家で頂こうと言うておるようなお夢でした。
私は本当にあの、此れは私がお腹を空かしておるとか、私がままになるとかと言う事は、そのまま神様が願い求めて御座る事。神様がお腹を空かして御座る事。それで例えば、その人はなら嘘ではなかったらしいけれども、恐らくその人は、コロッと忘れとったんだろうと思うんです。注文に行ってから出たもんですから。自分は大してお腹が空いてなかっただろうと思うんです。私が「お腹が空いた」って言いよるから「そんなら近所に美味しい支那料理が有りますから、出前を私が言うて来ましょう」と。
「そんなら」と言うて私は楽しんで待っとったけれども、待てど暮らせどとうとう来なかった。恐らくその後に会うてから、「あんたこの頃、支那品料理は来んじゃったばい」ち言うたら「はあ、コロッと忘れとりました」恐らく言うに違いないです。悪気じゃないです。やっぱ忘れとったんです。ね。その中から私は、こう思わせて頂くんですけれども、私がままになり、その方がままになると言う事は、氏子がままになり、神様がままになられる事だと思うです。
皆さんそれと同んなじ様な事を神様にお約束したり、お届けしたりお取次ぎを頂いた事はないでしょうか。「もう今年こそは、いっちょ日参をさせて頂きますから」と言うた。ね。言うなら、神様が一番お腹を空かして御座る様な、一番求めて御座る様な物をです、自分を本当気付かせて頂いて、「今年はこれで行こう」とか「此れからはこんな風にならせてもらおう」とか「此れからこうも改まろう。こうも磨こう」と例えば神様にお約束しながら、コロッと忘れておる様な事はないかと言う事です。
そして私は昨日、改めて色々思わせて頂く事があったんですけれども。此れは本当に私の言う事を聞くなら、絶対お徳が受けられておかげが受けられるな、と言う事で御座いました。此れは私が昨日から感じておる事。昨日の午後の奉仕の時でした。ある教会の総代をなさっておられる方が、久し振りで参って来ました。そして昨日の御理解を頂いて、こちらのお爺ちゃまが亡くなられたと言う事を知りませんでした。その時、四・五人お参りがあっとって、あのう偲び草の色紙を皆んなが頂いて帰られよりました。
それを見せて貰うてその、自分もね御霊様へお供えもしとらんけれども、今からでもまあお供えをされてから、自分にあの色紙を一枚頂けんだろうか、と言う事でした。「そりゃ差し上げるどこじゃありませんよ」と言うて、まあ差し上げた事で御座いましたけれども。その方がね、此処で言われる事です。「本当にまぁだ教会になって八年と言うのに、どう言う訳にこう言う教会やらお広前が、こんなに見事に。何処が違えば出来るだろうか」と言われるんです。
で私が申しました。「私はね、教会を建てようってなんてんなんて、全然思った事がないからですよ」其処ん所の教会長先生は、もう何十年係で、そのお広前建立を念願しておられるそうですけれども、話が起こると、立ち消え立ち消えになって、今にまだ出来ておらんというのです。「ほらー教会長が思い立っちゃるけんです」て私は申しました。ね。お広前と例えば会堂と言った様な物は、所謂神様が思い立ちなさる。それは「信者が思い立つ」と言う事にも通ずるでしょう。ね。
広々とした言わばお広前やら、立派なお広前を建立すると言った様な事が、言うならば、教会長の願いである様な事では、おかげ頂けんごと思うですがね、と。例えば近くは甘木の教会のなんかの場合でも、安武松太郎先生が、お広前建てるってなんてん思い付きなさったんじゃない。それを私も聞いておりましたが、とにかく、甘木の親先生は、「広く建てるな。大きく建てるな」ばっかりあの、始まった時には言いなさったげなですもんね、と言うてその方が言うておりました。
そしてああいう立派なお広前が建立された。合楽の場合でも同じ事。第一教会を建て様とか、お広前を建てよう、そげな事思うた事がない。それは例えば教祖の神様のご信心に持って行くと「此方は人が助かる事さえ出来れば」と言われたです。ね。こういう素晴らしい教えを、こういう素晴らしい御教えをです、これを例えば、難儀な氏子に取次ぎ聞かせたらです、どんなに世の中が助かる事であろうか、と思われた教祖の信心を頂かれた、直信の方達がです。
教会設立金光教の設立とか、教会建立とかと言った様な事をなさっただけであって、教祖はそんな事は全然、ね。金光教の教団を作ろうとかね。教会を大きくしようとかとなんてん、言いも思いもしなさった事がない。もう此方は人が助かりさえすればいい。此れはもう私もそれが実感です。もうどんなに狭いもうその椛目のあの時分の六畳と三畳でしたかね。それにこう縁も含めてまあ二十畳もあったでしょうか皆んなで。
一番始めの頃ねもうそれで一杯の人が、言うならばそのお参りをして来て助かって行く、もうそれでいいんです。同時に私はね教祖の神様が「今中」という言葉を使いなったそうですが、私も何時うの場合でも、椛目の人が助かり出した頃から、今日に到るまで同じ思いがある事です「今中」と言う事です。ね。なら此処のお広前が建立されました時に、本当に立派なお広前が出来て、あなたそりゃ「ふ」が良かったですばい、と言いおった先生があった。もう此れでお終いのごと思うちょった。
それから何年後には、又新館が出来た。もう此れで良かっちゃぁつもそして思ってないです、私は何時も「今中」です。だから此れがなら倍に又なった所でです、まあ此れで良いとは思わないでしょうし。ね。というてなら建てようとも思わないし。ね。そう言う働きが起こって来たら、限りなくそれに便乗して行くだけの事です。それから私が信者に不同の扱いをしない事です。と自分で此れは思うとりますと言うてお話した。まあそう言うそのーまあ私の、言うならば独壇場と言うか私の考え方。
だから私の考えが合うとるか合うてないかは白んけれども、まあ合うとるとじゃろう。人もどんどん助かって行くし、お広前も段々美しゅうなったり、広うなったりして行きよりますからね、と言う事をまあ話したんです。そしたらその人が手帳を出してからですね、言うんですよ。もう「先生あなたは、キリストやらお釈迦様やらですね、ソクラテスやらと同んなじですよ」ちゅう訳ですよ。「なしての」ちゅうた所が、手帳を書いてこう言う事を書いておられたですよ。
「一視同仁の心。教会を必要としない中庸(ちゅうよう)を尊ぶ」いわゆる中庸と言う事は、今中と言う事です。それからね「平和と人類の幸福を目的とする。故に応応を天啓を受ける」とあります。そう言う様な心の状態だから天啓を受ける。天啓というのは天地の神様を信用する。あの天地の親神様が啓示を現わされる。お知らせを下さるというのです。「聖人は必ず、宇宙根源唯一の神を信じその意志に服従し、一切自己の意見・主張・希望若しくは、欲望を主張する様な事がない」とある。
私はそれを聞きながら、私もそうだなぁと思ったんです。実際に思いました私も。そしたら「お釈迦さんやらキリストやらソクラテスやらと同じだ」という。「いや、私がたはもっと、もっと垢抜けしとるよ」と言うてまあ冗談に話した事でしたけどね。だから人が助かるのだ。だからお広前は色々立派になって行くのだ。ね。それで私が言う事をです、ならみなさんが信じて下さり、守って下さるならばです、必ずおかげも受けられる、徳も受けられるという、言うなら確信も愈々強うする訳であります。ね。
同時に私が言うことにヒントを得てです、親先生今年は例えば「こう言う信心で行きます」「今年はこう言う生き方になります」と、此処も改めます。もう此れを私の信心の信条と致しますと、言うなら私の空か空かしておる、お腹が空いておる、信者に求めておる、求めておると言う事は「信者がこうあってくれたら良かろう」と言う事なんです。ね。こうあったらおかげを受けるのに、おかげが頂きたいとは願いながら、こうあらんからおかげに成らんのだ、と私が思うのですから、ね。
言わば私のひもじい思いのしよる時に「そんなら私が支那料理ば頼んで来ましょう」もうほんとに嬉しい事です。というてなら私が嬉しがってから待っとったら何時まで経っても来んちゅう。もう途中でコロッと忘れとると。ね。それがもしその支那料理が来る。私も腹いっぱいその人も腹いっぱいそれこそ合楽の世界です。ね。神様もままになりゃ、信者氏子もままになると言う様なおかげが受けられる事に気付かせて頂いて、本気でそうなろうと思いながらそれを実行しない、途中でスッポラかしとると言う事です。
昨日朝倉郡の方からお参りをして来た方が、小便が出らんごとなったと言うお届けでした。私はその事をお願いさして頂いたらその、そりゃある教会のご信者です。今言うようにその、神様とお約束をしておりながらね、そのお約束を守らんからそう言う事になるのだ、と言う事でした。そしたら此の人は実に感心な事を実行しよりなさったばってん、恐らくそれば止めちゃるとじゃないじゃろうかと言うのです。と言うのはね大小便に、此の人は金は沢山持っておるそうです。
だから大小便に行った度んに百円ずつ賽銭をお賽銭箱に入れよりなさったそうです。私はそれを聞いて素晴らしいと思ったですね。けどその思い付きが。小便に行きゃ百円大便に行きゃ百円。そして大小便がこうやって気持ち良ういけれると言う事は、もう大変なおかげだと、まあ実感してあった訳か、そう言う話を聞かれたんでしょう。それを実行して御座ったんでしょう。それを自分も途中までは知っとると言う訳ですよ。
けれども最近はそれが出来よりなさらんとじゃなかじゃろうか、というて帰ってすぐた尋ねて見ます、というて帰られましたがね。どうですか皆さん、本当に大小便に行けれると言う時に、実感としてお礼を心から申されてです、ね。その度んべんにお賽銭を十円ずつでもいいじゃないですか、入れる位なおかげを頂いたら、もう健康間違いないでしょうね。健康今日健康である事を、只お礼を申し上げとると言う事じゃなくてです、もう大小便に、もう気持ち良う行けたと言う事は。
こげん此れはもう健康の印だから十円ずつ入れる。その方は百円ずつ入れよった。ね。所が小便詰まりばしてから、行かんごとなったと言う、私が此処で頂く事が、そう言う事を頂くんです。あの大豆豆をですね、丁度お百度踏む時の様に、こうこうやって一人ずつこうやって分け、こちらへ分けておる所を頂いたんです私は。ね。お百度踏む時にこう印にこうするでしょう。ね。だから恐らくそれが小便まり行った、大便に行った度んべんにです、百円ずつ積よんなさった。お礼を申し上げなさった。
所がそれば、此の頃めんどくさくなったか、惜しゅうなったか、止めらっしゃったじゃろうと思うんです。ね。本当にお礼を申し上げると言うても、本当にそういうね、実感を込めたお礼にならなければおかげにならんです。守り抜かなければ。私が聖人と言う訳でもなからなければ、生神様でもないのですけれどもです。昨日その方が言われる、私は手帳にメモして、ある本に書いてあったのをメモしてあったのを読まして貰うてです、此処のお広前がどうしてこんなに。
たった八年位でこんなに人が助かる様になったり、立派になったりするかと言う事の訳が何処にあるかと。それは「私が教会を建て様と思うとらんからだ」と言う事。「信者に不同の扱いはしないから」と言う事。そう言う様な事を二三お話させて頂いておったら、その手帳に書いてある此の事を読んでです、此処の先生は、言うならばキリスト・ソクラテス、又はお釈迦様と同じだというのです。私は「いやお釈迦さんよりかキリスト様よりか私の方が上じゃ」と私が言うた。ね。
それは私共は、教祖生神金光大神を頂いておるから言えるのです。教祖生神金光大神が説かれた事は釈迦・キリスト・ソクラテスが説いた、説き得なかった事が説いてあるからです。それを私はだんだん体得して行きよるからです。ね。聖人は必ず宇宙根源唯一の神を信じ、その意志に従順である。ね。と聞きながら思うて見て下さい、成程親先生がその通りだと信じて下さらなければダメなんです。
一切自己の意見とか、主義とか希望もしくは欲望を主張する様な事がない。成程合楽の親先生と同んなじだと言う事でしょうが。ね。「一視同仁の心教会を必要としない中庸を尊ぶ。平和と人類の幸福を目的とする。故に応応を天啓を受ける」というのです。最近の事で申しますならです、ね。合楽示現活動なんかも天啓です「寒天危地」ね。此れなんかも天啓です。そう言う天啓を往々にして受けるんだというのです。
そこでです私はですね、私が今朝からお夢に頂いた様にです、なら皆さんも私のお話を聞いて下さって、親先生が求めておる所にです、親先生がひもじいというなら、それこそ「支那料理でも取ってこうか」と言う様な気持ちが大概の人が、ね、思いなさるじゃろうと思うんです。そして愈々言っとってからコロッと忘れとる途中で忘れとる。いや途中までは実行しよるけれども、後は実行してないと言う様な事になるのじゃないでしょうか。そういう時にです「言う事を聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが」と。
あんたこの頃私に支那品料理ば食べさせるちゅうてから、とうとう忘れてしもうとったばいのう。今日だんいっちょ食べさせんのってなんてん、私が言わんもんですから。ね。それこそ親を寂しい思いをさせると言う事です。ね。なら一度そこに親の言うことを聞く事になればです、愈々おかげが受けられる。言うならばお徳の受けられる道が開けて来ると言う事になります。ね。
私は本当に親の言う事を聞かぬ子は、ね、親でもしかたがないという、本当に寂しい思いをさせてはならんと言う様なね、言うなら「信心は親に孝行するも同んなじ事」と仰る、そう言う心を、愈々止むに止まれん物にして行くと言う事が信心だと思います。ね。愈々神様の願いに応えて行くと言う事に、愈々尊いものを、有難い物を又は楽しい物を感じれれるような信心を頂いて行く事だと思います。
此方が天地金乃神より受けた、受けておる事を話にしておくのぞ。所謂教祖の神様が、ね、それこそ往々にしてではなくて、この教えの全てが天啓を受けてからのお話なのです。それを私共は聞かせて頂く、というてそれは難しい事かというと、決して難しい事ではない。その気になれば、皆んな実行が出来れる事。今日私は夢の中に、もっと素晴らしい事を頂いたんですけれども、コロッとそれこそ忘れてしもうとる。
ただ残っておるのはですね、あれは何とか千代という、歌手がおります今は居らん、あんまりおらんですけれども。何でしたかね。それこそコロッと忘れてしもうたんですが。おかげを受けると言う事はね、その徳を受けると言う事であって、それが千代と言う事。名前を千代と意う。千代と言う歌手がおるでしょうが。ああそうそう奥村、奥村ですか、奥村千代です奥村です。
というのは信心の奥雅というのです。ね。千代と言う事はその信心の奥雅に触れて行く、愈々触れていったら、もうそれが有難うして楽しゅうて応えんごとなる。此れがそれこそ千代に八千代にと言う事は、そのなんでしょうか、ね。残る徳と言う事です。ね。そう言うおかげを頂く為に今合楽で、それこそ私が言っておる事を皆さんが本当に、私が求めておるものを皆さんがね、言う事聞いて下さるならばね、必ず奥村千代のおかげが受けられると言う事です。
どうぞ。